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他者と死者―ラカンによるレヴィナス |
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他者と死者―ラカンによるレヴィナス海鳥社 価格(new/used): 2,625 円 / 2,500 円 より 発売日: (2004-10) アマゾン売上ランキング: 80921 位 単行本 / 通常24時間以内に発送 [ユーザーによる評価] 平均評価: 3.0 / 総数: 4件 性善説が前提なのか?著者の本はいつも読んだ後に違和感が残る。 「同罪刑法的思考に基付かず、神の力をも借りずに、なお善を行いうるという事実、それが人間の人間性を真に基礎付けるのである(P.268)」という意見は理解出来るし、「私自身が私自身の善性の最終的な保証人でなければならない(P.265)」という意見も分かるのだが、「『私たちは行います、それから私たちは理解します』と言う者たちにとって、善へのこだわりは善悪の選択の結果ではない。善へのこだわりは善悪の選択に先んじている。善の無条件承認。(・・・)善か悪かの二者択一に先行する善との結びつきというものが存在するのである(P.159)」というレヴィナスの言葉は私に、地下鉄にサリンを撒いた人々を思い出させる。著者によれば彼らは倫理的には正しかったということになるのだろうか? ごめんなさい。わたくしはレヴィナスもラカンも欲望することができない(笑)。両者を欲望しない人間が本書を手に取る意味があるのか? この質問に答えられるのはわたくしのような立場の人間だけであろうと思うので、ナンセンスを承知で記しておく。本書の前半は著者の他の著作で繰り返し登場するテーマなので繰り返しを厭う向きには退屈だろう。後半は逆にレヴィナスを「欲望」しない人間には退屈以外の何物でもないだろう。お勧めできない、が結論である。 本当に知りたかったのは、レヴィナスもラカンも「師」と仰ぐ気持ちの無い人間に内田氏がどのように対応するか、だったのだが、縁なき衆生は度し難し、なのだろうか。 いかなる理由があろうとも、わざとわかりにくく書く人間をわたくしは許せないし、何物かを蔵しているようなそぶりを見せる人間にも堪え難い。宝物は平明すぎて誰もが見過ごしているような場所にあると考える「独学者」だからである。 ファンタジックな、「死者」の話読むたびに新しい発見に驚き、螺旋階段を伝ううちに「天上」へと導かれてしまうような構造を、この本は持っている。引用された文章がどれも見事だ。いつ知れず、それらと地の文とが美しい和声を奏で始め、やがてほとんど一つの「思考」として新たに生成されるドラマに立ち会っていることに私たちは気づく。 レヴィナス的「主体」は言う。「有責なのは私一人である。それは誰も私に代わって引き受けることができず、誰もそこから私を解き放つことができないような有責性である」 これは、キリスト教的「原罪」の話ではない。レヴィナスが向き合っているのは、神ではなく「他者」、それも「死者としての他者」である。だが、レヴィナスにおける「死者」は、自己の善性を根拠づけたり(自分の御都合で「死者」を呼び出す者は多い)、何かの「報復」(→テロ)を正当化するための“存在”ではない。 死の話は当然、生の問題でもある。超越的なものをそもそも持たず、死者への「弔い」方も見失ったこの国の人間にこそ、屈折したレヴィナスの言葉がよく届き得る可能性がある。 内田氏自身、「この本に書き連ねたのは私のファンタジーである」とウェブ日記に記しているが、そのファンタジーに導かれて遭遇するレヴィナスの「無限なる有責性」という途方もない考え方は、性懲りもなく「生」の意味を求めてしまう気持ちのどこかに、いつか磨かれることを待っている原石のように残ってしまう。 甘美な物語は、何を切り捨てたかラカンとレヴィナスに共通する「理解困難な語り」について、著者はまず、それが師弟関係における師の語りであるとする。禅の公案なども引き合いに出されていた。そして、第2次大戦での死者たちへの鎮魂の情が、そのような語りを要請しているのだと言う。著者は「ラカンによるレヴィナス」と言うけれど、ラカンが参照されるのは、ほとんどこの点の説明に尽きている。なるほどそれはラカンの核心かもしれないが、そこまで還元されたラカンを、それでもラカンと呼べるのかどうか。しかも論拠として引用されるのが、いずれもラカンのちょっとした談話であり、この本全体を支えるには心細い。 著者はラカンとレヴィナスの共通性を、世代論的な問題のように捉え、死者への鎮魂でくくってしまうけれど、素直に考えればもっとハイデッガーの存在が強調されてもいいんじゃないか。またラカンが厳格なカトリックの学校で教育を受けたことも重要ではないか。 師弟関係が世界と幼児の関係に重ねあわされ、さらに死者と生き残った者の関係へと発展させられ、神と私たちの関係へと展開していく筋道は、話として面白くはあるけれど、かなり危なっかしい。こんなに簡単にすべてをまとめていいのか。 また、他者との対話空間に絡め取られ、縫合され、帰還することなく漂流することばかりが称揚されるが、他者を大鉈で裁断し、相対化することが不必要のはずがない。著者は逆の意味で、安易な見切りをしているように思う。この見切りは物語の生成には貢献するかもしれないが、生の現実には使い物にならない。 |