![]() |
たんば色の覚書 私たちの日常 |
| - 毎日新聞社 価格 ¥ 1,260 | |
| home|書籍|CD|DVD|ゲーム|ソフトウェア|家電|キッチン|おもちゃ・趣味 |
![]() |
たんば色の覚書 私たちの日常毎日新聞社 価格(new/used): 1,260 円 / 790 円 より 発売日: (2007-10-31) アマゾン売上ランキング: 172883 位 単行本 / 通常24時間以内に発送 [ユーザーによる評価] 平均評価: 4.5 / 総数: 7件 日常に潜む罪や無恥を暴き審問する得難き良書半身不随の身体で癌と(著書の言う)既に壊滅している日常と戦う辺見庸氏が、共同通信時代の実体験、世界の思想家と病苦・病痛とその経験から生じた諦観から描いた本書=氏の思想に改めて感服すると同時に、自身が無意識に自己を免罪している紛れ無い事実に心が打たれました。 氏は全ての物事の商品化に成功した資本主義(言わば人類が自ら生み出した癌)との戦いは、アメリカの作家メルビィルの著書に登場する代書人バートルビーのように、単独者の自己存在を賭けた拒否(言わば国家とそれに組織的に対抗する暴力に次ぐ第三の暴力=無暴力的暴力)によってこそなし遂げられるはずだと述懐します。 そして最後に、「痛み」とは、「姿はるけし他者の痛みを自分の痛みをきっかけにして想像することを可能とする優れた特性を持つもの」と締めくくりました。ここ2年の間に父と愛犬を痛みを伴う癌で失った経験から私も痛みには大きな意味(他者との作用)があると考えています。死を控えた著者の慧眼による本書は我々日本人が最も読んでおくべき書の一つではないでしょうか。 〜著者の言葉抜粋〜 ・ワシントンでも東京でもなく、本当に大事なところは、まだ2歳か3歳の赤ちゃんの背中にナパーム弾が落とされるところであり、子供が飢えているところ。そういう場所こそが世界の中心であるべきで、世界の中心と私たちをつなげるものは想像力しかありえません。 ・ヴェトナム戦争時のアメリカの歌「雨を見たかい?」(真実はナパーム弾を否定する反戦歌)をアフガン・イラク戦争を経て日系自動車企業がCMで起用したことが意味するのは、残虐な死の記憶を背負った曲さえも、大企業の資本というものは平気で飲み込むということ。 腐臭を放つ日常への異議申し立て「日常という舗装道路の下はすべて死体だと考えてもいい」 このような言葉を使うことのできる作家が辺見庸である。 うるわしき日常のなかに埋め込まれた死を、禍々しきものをはわれわれは黙約をもって 排除する。そして麻酔をかけられ、うるわしき永遠なる日常を幸せな詩人として生きる ことを望む。 しかしそれは「恥辱」の気持ちの喪失をも意味するのではないだろうか? 「日常」は憧れ、慈しむものではなく、むしろ敵視すべきものではないのか? 全体に通底するのは、言葉に見限られつつある、現状に対する虚しさと哀しさである。 にもかかわらず、文章は磨きぬかれ、研ぎ澄まされ、「言葉の力」を信じさせる力を持 っているのである。 この珠玉の一冊をぜひ手にとってもらいたい。 悲痛だが静かな叫びと告発脳梗塞で倒れて以来、辺見庸を数々の病魔が襲っている。 今はガンの痛みと闘っている。それが辺見庸の「日常」である。 その「日常」から、今私たちが、他者の痛みを感じず、己の痛みすらも麻痺していることを 静かに告発する。筆致は相変わらず扇動的なところも見られるが 本書は自らの肉体的痛みを俎上に上げて、そこからの告発だけに、 清々しい覚悟のようなものさえ感じる。 もはや辺見庸は、己の中の矛盾点が見つかったとしても立ち止まらない。 ……私固有の痛みとはるかな他者のそれには、やはり何かの縁があり、ときとしては果てしない距離を置いてたがいに鈍く重く疼きあうこともありえよう。2つの異なった痛みをつなぐのは、私的痛感を出発点にした他者への痛みへの想像力にほかならない。むろんそれは容易に届きはしない。(中略)痛みはだから、いつも孤独の底で声を抑えて泣くのだ。(あとがきのかわりに、より) かつて辺見庸が「反戦デモ」に参加したとき、参加者の「笑顔」に衝撃を受けたと書いたことがある。 「これじゃない! そうじゃないのだ!」と。 本書でも辺見庸は痛みの中から叫び続ける。まさに悲鳴のように。しかし静かに……。 涙色癌末期とは思えぬ渾身の力をこめて書かれていて,やはりあとがきにすべてが集約されている <姿はるけし他者の痛みを, 私の痛みをきっかけにして想像するのをやめないのは, 徒労のようでいて少しも徒労ではありえない. むしろ,それが痛みというものの他にはない優れた特性であるべきである.> と結ばれているその言葉から 痛みを共感することでのコミュニケーションのあり方についても 深く考えさせられた. 私たちの「日常」を静かに告発私たちの日常とは痛みの掩蔽のうえに流れる滑らかな時間のことである。または、痛みのうえにしか滑らかに流れない不思議な時間のことである。日常を語るには、したがって、痛みを語るほかない(本書「痛みについて―あとがきのかわりに」)。 しかしながら、私たちはもはや、肉体的な“痛点”はともかく、心の“痛点”を喪失して久しい存在かもしれない。そして、私たちが声高に語る、あるいは無為に過ごす「日常」とは、辺見庸さんが立言するように、心の“痛点”が欠落した「黙契と代理執行」(本文)のうえに成り立つ、実は、虚偽と腐臭に満ちた非日常的な時間の寄せ集めかもしれない。その心の“痛点”を文詞を通じて想起させてくれる表現者が辺見庸さんだろうか。 本書に登場する「顔のない男」「頭の小さな女」「確定死刑囚」を始め、アフガン、イラク等における累々たる死人の山など、すべては私たちの「日常」から追い払われ、私たちには全く何の痛覚もない。どうやら私たちは、自身・他者を問わず、人間的な痛みを感じさせない世界に棲んでいるようだ。まるでゾンビのごとく…。対抗軸としての「公共空間」すら汚染されている現代において、辺見さんは身体の奥底から絞り出すように語る―。 だからこそ、私たちは常に個という極小の単位に立ち返る必要がある。「私」という単独者の絶望と痛みを、大げさにいうならば、世界観の出発点とする。絶望と痛みは共有できず交換も不可能である。そのことを認めあうほかない。そこではじめて、他者の痛みへの想像力や存在自体への敬意が育つのではないかと私は考えています(本書「私たちの日常」)。 |