ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代...

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ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち


原書房

価格(new/used): 1,575 円 / -- 円 より
発売日: (2008-06-09) アマゾン売上ランキング: 4525 位
単行本 / 通常24時間以内に発送
[ユーザーによる評価] 平均評価: 4.5 / 総数: 7件

すばらしいヤンキー文化論。ただしケータイ小説は読みたくならない。
 著者は「あとがきにかえて」で、「多くのオタク論が幅を利かせている中、なぜかヤンキー論はほとんど出てこない。この国においては、ヤンキー文化全体が『被差別文化』なのだ」と憤り、都築響一『夜露死苦現代詩』に好意的に言及しつつ「相田みつをを疎外すること、ケータイ小説を疎外することでしか自分たちの優位をアピールできないところに、現代詩、純文学の行き詰まりがある」(p217)と断じる。
 都築本は、歩道橋に落書きされた「夜露死苦」に過去数十年の現代詩を超えるリアリティを認めていたから、著者が参照するのは分かる。しかしデュシャンが小便器を“遡及的に”アート化したように、「夜露死苦」が詩であるのは、それを拾い上げる都築の文脈創造力(編集力)によると言うべきだろう。
 しかも私が思うに、なるほどケータイ小説の成立にヤンキー文化が深く関わっていたとしても、ヤンキー文化論とケータイ小説論は峻別されるべきではないか。そして本書は、作品自体と向き合う姿勢を示した東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』と異なり、要するにケータイ小説を手がかりとしたヤンキー文化論ではないか?
 ただし秀逸なヤンキー文化論であるのは確かで、ケータイ小説の系譜を示した上でこれをファンタジーと断じつつ、その作者たちも意識していない「デートDV」の常態化を指摘する件りは素晴らしい。さらに現代の若者たちがケータイを持つことで閉じ込められた「コミュニケーションの檻」に話を進め、ケータイ小説の真の「文学的主題」とはこの檻との対峙だ(p210)、という分析も説得的。
 ちなみに、著者はケータイという技術がコミュニケーションを変容させたと述べており(4章)、「技術決定論」に否定的な『ネットいじめ』の荻上チキと対比できる。これは『東京から考える』における東浩紀vs北田暁大の構図にも通じる問題だが、それはまた別の話…
夜露死苦現代詩
ゲーム的リアリズムの誕生‾動物化するポストモダン2 (講談社現代新書 1883)
ネットいじめ (PHP新書 537)
東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス 1074)
著者の思いつきに過ぎないのでは
今の若者や社会の実態を知ることができるのでは、と期待して本書を読み始めた。
しかし、まったくの期待はずれだった。
本書の基本的な問題は、本書の著者がケータイ小説にもその読者にも、
理解しようという姿勢や共感をほとんど示していないことである。

本書には、浜崎あゆみの歌との関連や、読者が地方郊外に多く東京にあこがれを持たない、
など著者の知識の広さや発想の豊かさを感じさせる論考もある。
しかし、そうした論考も十分な検証が行われておらず、
著者の思いつきに過ぎないように私には思える。

こうした本の存在は、ケータイや今の若者・社会について
偏見を広げる結果をもたらすのでは、という懸念を私は抱いている。
「コミュニケーションの檻」が生み出す「物語」
◆ケータイ小説の特徴

  1 回想的モノローグ
  2 固有名詞の欠如
  3 情景描写の欠如


  「実話テイスト、少女の恋愛物語、定番悲劇イベント、ハイテンポ、
   すかすか、社会的に正しくない」(米光一成、『國文學』 2008年 04月号)



◆ケータイ小説の文化的背景

  浜崎あゆみが書く詞(自分の幼少時代の傷の存在を匂わせ、そこから違う自分を
  取り戻そうとする「トラウマ回復」のモチーフが頻出する)の影響が大きく、さらに
  時を遡れば、一九八〇年代後半から一九九〇年代前半にかけてのヤンキー雑誌の
  投稿欄的な世界を結び付けることができる。それらを大きく括ると、「ヤンキー文化の影」
  ということになるだろう。

  そのヤンキー自体は、一九九四年あたりからは一旦、後退の気配を
  見せるものの、浜崎あゆみのデビューを機に、再び盛り返すことになる。

  一方、「遅れてきたヤンキー」として浜崎あゆみがデビューしたことは、
  コギャル全盛に傾きかけた不良少女の分布図を塗り替える出来事でもあった。

  これは同時に、不良少女たちの再保守化として見ることもできるかもしれない。



◆雑感

  ケータイが我々の生活に深く浸透することで、常に「つながること」へのアディクションが
  増幅させられ、結果的に恋人の束縛という形につながっていくという現状があります。

  デートDVを繰り返すような暴力男が自分に対して依存することをみずからの
  心身の安全よりも貴重だと考えるタイプの女性は、いわゆる共依存に陥っており、
  アダルトチルドレン的な性向の持ち主といえます。

  彼女たちはそうした関係性が不健全なものだと自覚したとしても、
  なかなか解消することはできません。


  そんな彼女たちの姿をデフォルメした形で映し出すケータイ小説とは、結局
  ケータイによって作られた現代の生きづらさを慰撫する「装置」なのでしょう。


  
ケータイ小説の思想
ケータイ小説の思想的系譜やそれがヒットした社会的背景を詳細に分析した本。対象をよく読み、また関連する事情をよく取材しているな、という印象を受けた。単なる作品批評に終らせず、そこから現在の若い女性(とりわけ郊外の)がおかれている状況をあぶりだしていくという、なかなかお見事な仕事である。
ケータイ小説は浜崎あゆみの歌詞の内容や構造を様々なかたちで反復しており、尾崎豊のような社会反抗型から浜崎のトラウマ内省型の歌詞が受用されやすい時代への変化がそこからは読み取れる。ケータイ小説の「リアル」は、『ティーンズロード』などレディース系の少女雑誌で行われていた投稿文化の延長上で成立しており、読者投稿における事実じゃないだろうと思われる不幸(レイプ、妊娠、恋人の死…)の自慢合戦が、一定の「リアル」が感じられる物語として受用されていたという事実は見逃せない。
あるいは、ケータイ小説では「東京」への憧れがあまり存在しておらず、代わりに地元つながり志向が顕著に見られるが、他方、地元つながり文化においては女性が疎外されがちであるため、その穴を小説がうめているのではないか。また、携帯電話の普及は、コミュニケーション依存型の人格を同時に普及させたが、この「つながり」の圧力は若者の恋愛事情をも根本的に変化させている。総じて恋人間の束縛の強度が高まっており、デートDVも起りやすくなっているのだが、そうした現状を肯定するような物語の展開に関しては、ケータイ小説擁護派の著者もかなり批判的である。
全体としては、ケータイ小説の定着と密接にリンクしたヤンキー文化の復興を冷静に論じようとしており、このヤンキー文化/社会の行く末は今後も引き続き重要な論点になるだろうと痛感した。加えてヤンキー少女に実はかなり人気らしい「相田みつを」の意義も再評価されており、こうした点も含めて、かなり独創的な文化評論の著となっている。おもしろかった。
久々にセンス・オブ・ワンダーを味わった
多分にもれず「ケータイ小説? ハァ?」なんて鼻で笑ってたクチですが、
この本読んで180度印象が変わった。
念入りなフィールドワークとジャンルを横断した(音楽/まんが/社会学/民俗学/文芸批評)分析で、
現在「ケータイ小説」と呼ばれるものがなにを表現しているのかを解き明かしていく。
こんな評論、いままで読んだことない。
自分の固定観念が思いっきり揺さぶられる。
久々にセンス・オブ・ワンダーを味わったよ。
1500円ってちょっと躊躇する値段だけど、
読み終えたあとでは「この目からウロコがドバドバ落ちる体験が1500円でできるなんて安い! 安すぎる」と思える内容。
超おすすめです。
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