羽生―「最善手」を見つけ出す思考法 (知...

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羽生―「最善手」を見つけ出す思考法 (知恵の森文庫 t ほ 1-1)


光文社

価格(new/used): 650 円 / 100 円 より
発売日: (2007-06) アマゾン売上ランキング: 93031 位
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[ユーザーによる評価] 平均評価: 4.0 / 総数: 4件

買いですが。
興味深いといえば深いのですが、やはり小説と、こういう思考の「筋トレ」のような読み物であれば、小説の読み方や哲学に関してのエッセイのほうがとっつきやすいように思いました。朝日新聞社から出た当時は羽生という人が今よりも世間の耳目を集めていたような気がするので、その頃からずっと羽生という人を追っていれば、今また本書をもっと興味深く読めたのかもしれません。
これは何を表現した?
数ある羽生さんの本(本人著も含めて)の中でも異彩を放っています。帯の茂木氏の言葉「本書は、まだ言葉にもできない何ものかに向き合っている」があまりに的確なコメントだと感じました。私自身の言葉で言えば、なんだか学術論文の草稿を読んでいるような気がしました。棋譜の解説と本人の肉声(往々にして不完全で抽象的)と著者の解説が入り乱れて、頭の整理が苦手な私は理解しえたとは思いませんが、常々感じている強さの不思議を改めて認識させられた書でした。思考や脳のファジーな部分は、同じことをしてるのにどうして個々人で様々に異なって構成されていくのか、その不思議を誰か解明してください!それこそが個性なのでしょうか?
解説ではない
羽生の将棋観を読み解きながら、「思考」についての著者の思いが言語化されているとは思うが、果たして羽生の将棋を"言語化"しているのかと考えると疑問が残る。そういう意味では羽生の将棋の解説と考えて手に取るべきではない。著者はエッセイでも小説でも一貫して作品と作者の関係性について語っており、それは端的に言えば小説は作者を超え、小説自身が独自に運動している、ということだ。そこにおいて作者の意図などはあくまで小説のもつ運動に比べれば付属する存在でしかない、と。
その小説観、芸術観を、羽生の将棋観にも見出した著者が、羽生と自分との「共鳴」を言語化しようとしたのが本書だと思う。
羽生は著作も複数あり、マスコミへの登場も多いので実に多くのことを語っている。必ずしも著者が共鳴した将棋観だけでは捉えきれない、むしろ矛盾するような発言もあるが、本書は解説ではなく、あくまで著者による批評として受けとめる必要がある。
批評もまた、批評の対象を超えて独自の運動をするものなのだ。
棋譜の解説ではなく、棋士の評伝でもない、将棋を題にとった批評文として興味深い一冊。
将棋の「形式知」「暗黙知」を小説家が表現する処が面白い
「最善手」を見つけるために羽生善治氏はどのように考えているのか?
その過程を(将棋のプロではない)小説家が迫っているところが面白いです。しかもそこから引き出した結論が、至極尤もらしいのです (→ 初版刊行時(1997年)に指摘している事実は素晴らしい)。つまり、言語化できている「形式知」だけでは「最善手の選択」は説明がつかない。(それならばデータや局面判断のルールを教え込んだコンピュータがとっくに人間を凌駕しているハズ) 「大局観」「駒が笑う」「手の流れが美しい」とかいった、どうしても言語化しにくい「暗黙知」の部分が指し手を決定に占める割合が大きいわけです。そんな言語化しにくい処を、"言語化のプロ"である小説家がうまく表現していると思います。小説の世界で例えるなら、正しい文法を教え込んだコンピュータが正しい文章を書けたとしても、"文章の流れの美しさ"を判断するには未だ至っていない、よって小説は人間の領域である、ということと似てなくもないです。(→ ポランニー「暗黙知の次元」でも似た議論がありましたね) ゲーデルの不完全性定理も想起したりして、愉快でした。
最後の章「コンピュータ観」のところは、1997年から10年経った今、Bonanzaの登場により「(読みの)量は質を凌駕するか?」という課題が再浮上して来た感もあり、文庫化の際に少し補足しても良かったもしれません。とはいえ、ここで語られている話は、今でも十分通用する話です。将棋に限らず、科学の研究活動でも当てはまることが多いですね。「科学者は頭が悪いと同時に頭が良くないといけない」(寺田寅彦)なわけです。羽生氏はその両方の側面をバランス良く備えています。そんな観点で羽生氏の書籍(※)を読み直すと面白いでしょう。
(※)「決断力」、「簡単に、単純に考える」、「先を読む頭脳」