意志と表象としての世界〈1〉 (中公クラ...

Arthur Schopenhauer - 中央公論新社 価格 ¥ 1,733
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意志と表象としての世界〈1〉 (中公クラシックス)

Arthur Schopenhauer
中央公論新社

価格(new/used): 1,733 円 / 1,380 円 より
発売日: (2004-08) アマゾン売上ランキング: 14063 位
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[ユーザーによる評価] 平均評価: 4.5 / 総数: 5件

ショーペンハウアーは何処にいる
 ショーペンハウアーはカント哲学の後継者と言えるので、本書を読むには特に『純粋理性批判』を読んだほうがいい。カントはヒュームの懐疑論に反駁するためにそれを書いたので、カントの重要性を理解するにはヒュームの『人性論』も読んだほうがいい。

 さてそこで『意志と表象としての世界』だが、まずここでいう「世界」は、カントのいう我々の認識できない物自体としての世界、感覚を通し、時間、空間、因果性の枠内で働く理性では把握できない世界それ自体を意味する。

 「表象」もカント哲学の影響下での意味を持ち、我々の認識できない物自体が、感覚を通して我々に現れたものが表象で、背後にある物自体が不可知である「現象」は、これを物自体の側から表現した言葉だ。

 最後の「意志」は原題でWille、英訳だとwillだが、イギリス人のブライアン・マギーは、このwillという言葉を使うことによって、多くの誤解が生じたと、大いに嘆いている。ショーペンハウアーは物自体である世界を willというのだから、表象しての世界、現象としての世界の究極の現れである「エネルギー」とか、「力」としたほうが、まだ誤解が少なかったのではないかとも書いている。

 「意志」は世界自体を意味し、従ってこの表題は、「世界」は、現象としての「表象」とそれ自体である「意志」を、世界の一部である我々人間の内に開示しているということを意味している。

 ちなみに私は本書を第三巻第五十一節まで読んで、放擲した。
それはショーペンハウアーの博覧強記による記述が彼の体系を覆い隠しているのと、西尾幹二の解説が指針にならなかったことによると考えている。
 
ショーペンハウアーはここにいた。
Bryan Magee "The Philosophy of Schopenhauer" Oxford University Press 1997
ショーペンハウアーの証明否定説
ショーペンハウアーの本の文中で悟性的な直観を使って先天的に認識された事柄に後から証明をわざわざするなど馬鹿らしいと書いてあるが、それはある意味正しいことである。もし三角形がひとつ机の上においてあるとして、その3つの角度で一番小さい角を答えよといわれ、それを紙上でわざわざ難しい計算をして導き出すのと、その角度を直接分度器で測るのとではどちらが理にかなっていて納得するだろうか?前者は紙という2次元の上で導き出される抽象的な直観であり、後者は実際のものに対しての認識であり、悟性的な直観である。抽象的な直観はそのものの本質は正確に伝えられないが、そのものが起こす諸法則のひとつを概念に組み込み万人に伝えるのには便利である。悟性的直観はというと、その三角形を目の前で見せられ、どの角度が一番小さいなどは直感に認識され、ある程度すぐにわかることだろう。この直接認識される事柄と数式で出される答えとの根本的な違いはなく、わざわざ数式で出せば二度手間だということだ。
 これは推論でしかないがショーペンハウアーの言いたかったことは次のようなことであると思う。まず抽象的な直観の数式である問題の答えをみんなで解かせて、ほとんど同じ答えが出るようにすることは出来ようが、それはひとつの法則についての答えだけである。悟性的な直観は経験に少なからず依存しており一人一人の答えに多少の違いがあり、しかもその一つ一つがその事象の真理を指すと。それはライトの光を見て、明るい線が自分に向かってくると感じる人もいれば、波のような光が向かってくると感じる人もいるということであり、その両方とも真理を語っていることに違いはないということである。
説得力を失うのはその人物の思考したものを乗り越えるとき
「世界は私の表象Vorstellungである」『意志と表象としての世界』は四つの構成から成立している。第一考察で基本的かつ根源的な考えを述べた後、第二考察でそれぞれ第一考察がどのように用いられているか、事例を用いて表現される。第二考察は第一考察の基本的な枠組みを押し広げる発展的な役割も為している。「表象」とは「目前に思うように心に思い描くこと。心像・想像・観念など広い意味」である。一般的な「現象」である。表象は、四つの原理:時間・空間・物質・概念に拘束される。この四つの原理=物が存在するための原理を、根拠の原理と呼ぶ。あらゆる表象=現象は、この根拠の原理に拘束され、時間から継起・空間から位置・物質から因果性・概念から関係性が導き出される。各人は表象=現象を物事の認識として到達する。しかし「意志」は、根拠の原理から拘束されず独立している。カントは、目前のものから色・形・重さなどあらゆる性質を奪い去って、それでもなお取り除くことのできないものを時間・空間・因果性とした。ショーペンハウアーは、個体化の原理とされる時間・空間・因果性を通して物自体を把握できるとすることは誤りだと見る。動・凝集力・不可入性などの一般的な自然力や電気・磁気作用などの複合的な状況下でのみ作用する自然力は、時間・空間・因果性といった個体化の原理で理解することは誤りで、人間の認識作用・意志作用を通して解せられると指摘する。思考にレッテルを貼ったり、人物の生き方の趣向・イメージ(好嫌尊卑)を云々言うよりも、書き連ねられた言葉と直接闘うこと。そして個人的な好嫌尊卑を超えて自らも思考すること。なぜなら「ショーペンハウアーが世界をどう見ていたか」は「私は世界をどう見るか」という命題につながるからだ。好嫌尊卑を超えて思考すること。説得力を失うのはその人物の思考したものを自らも思考し乗り越えるときしかない。
SFを読むような・・・
厭世哲学の典型のように見られているショーペンハウアーだが、この
世界のでたらめさを説くところは、フィリップ・K・ディックのSFを
読んでいるようだし、また仏教哲学にも通じるものを感じないでは
おれない。確たるものの無い世界を喝破したショーペンハウアーは
あのニーチェをも一時は魅了したが、やがてニーチェに批判される。
思うに、この世の闇の底にまで至ってしまったニーチェのような人
にはショーペンハウアーはどこか悲壮、ではなく皮相なんだろう。
しかし、その皮相な世界観もまた読む側には面白いものである。
ちなみに訳者・西尾幹二はニーチェ研究の草分けでもあり、その
解説も非常に参考になる。
ショーペンハウアーの新しい理解のために
ペシミスト、消極的ニヒリズムの徒、ドイツ観念論の傍流あるいはその(ヘーゲルに先立つ)最初の完成者、苦悩の哲学と生の否定… 従来の一般的なショーペンハウアー理解は、厭世的な哲学者というイメージが圧倒的だった。けれども、どうやら今日の研究者たちの間では、こうした古いイメージは一掃されつつあるようだ。

新書サイズの3分冊になったこの本では、以前の西尾幹二氏の解説に代えて、新たに鎌田康男氏による解説が加わった。この魅力的な解説が、この本の面目を一新している。鎌田氏は、西欧近代市民社会がはらむ「自由であるがゆえに孤独でなければならない運命」をわれわれ現代人とも共有する19世紀の先駆者にして同時代人として、この哲学者を再認識するよう迫る。
この解説を読んでから、改めて本文を読むと、ペシミスト・ショーペンハウアーとは別の、ポスト・モダニスト・ショーペンハウアーの姿が浮かんでくる。古いイメージに憑かれた読者にとって、これは新鮮な体験であり、「ドイツ観念論」という哲学史理解の枠組みそのものの変更を迫るような衝撃である。