人間失格 (新潮文庫 (た-2-5))

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人間失格 (新潮文庫 (た-2-5))


新潮社

価格(new/used): 300 円 / 1 円 より
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[ユーザーによる評価] 平均評価: 4.5 / 総数: 107件

地獄・餓鬼・畜生
主人公は、地獄・餓鬼・畜生の三悪を常に流転していて、地獄の様相は、まさに地上にありと言えると思う。「これも人間の姿なのだ」とわかっていながら、その逆に崇高な精神も己の中にあると悟れないまま一生を過ごしてしまうのがなんとも悲しい物語。
白痴の少年・貧しいがこころの美しい女性・びっこのおかみさんなどの登場人物は、ドストエフスキーに影響を受けていると思うので読み比べても面白いかもしれない。
歌にたとえるなら、――「サウンド・オブ・サイレンス」
 この「人間失格」は、私がはじめて買った太宰の作品です。
 木村綾子さんはこの作品から、聴こえて来る声がある、と言っています。私はそんな声は聞こえなかったけれど、声に、ちなんだことを言えば、私はこの作品を読むと、サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」を思い起こします。――さあ、僕の言葉を聞いてくれ、僕の差し伸べる手に掴まるんだ、でも、僕の言葉は、音もなく井戸に落ちるしずく。井戸に静寂の音を響かせるだけ。――「サウンド・オブ・サイレンス」に描かれたコミュニケーション不能の世界と、「人間失格」に描かれた大庭葉蔵と世間との隔絶の世界と。二つの世界はリンクスしていきます。――そして、人々は額づき祈る、彼らが作ったネオンの神を。――なんていうくだりにくると、今度は、「如是我聞」を想起させます。「如是我聞」におけるネオンの神=「虚妄の権威」は志賀直哉でした(相馬正一氏)。「人間失格」そのもののなかにも、志賀への批判と受け取れる場面があります。葉蔵が鮨が大きすぎる、もっと小さくならないものか、親指くらいだったらねえ、と嘆く場面です。私のおぼろな記憶が確かならば、志賀の「小僧の神様」にも鮨屋が出てくるのではなかったでしょうか、そうして、短編小説の名手太宰は、マンネリズムのたい積でしかない志賀の長編小説に反発を感じていたのではないでしょうか。その反発を太宰は、大きすぎる鮨はいやよ、発言に〈翻訳〉したのではないでしょうか。
 以上、むりやり、「人間失格」と「サウンド・オブ・サイレンス」を結び付けようと試みてみました。ちなみに、二つの作品で主人公が真に希求しているのは、真の権威=イエス・キリストである、と私は考えています。
試金石
1. なんて暗い話なんでしょう。どこが面白いのでしょう。
2. ああ、可愛そうな主人公。私と全然違うけど同情します。
3. これ私のことだ。破滅に向かって一直線。

 読んだ人に感想を聞くと、三つのパターンありそうです。感想1.と2.の人は、天災や戦争の
ない限り、それなりに楽しく生活できそうです。
 感想3.の人は、敏感なので1.と2.の人に見えないものが見えたり、感じないものを感じる
こともあるでしょうから、普通に生活するだけでも大変でしょう。
 多感な年頃のころの初見の感想が3.で、歳を重ねた後の2回目が1.の人。こういう敏感と
鈍感が同居した人は何かやらかしてくれそうで大好き。
 本じゃなくて、読んだ人の感想になってしまった。太宰さん、ごめんなさい。
どんな思想書や哲学書よりも重くて、生きる知恵を与えてくれる
人間失格は僕が以前に読もうと思って挫折した本です。
正直相当な覚悟みたいなのが無ければ読むのはあまりお勧めしません。
名作として永く語り継がれていたのと、
太宰治という人間がどんな人物であったかが気になって読みました。

文章は骨組みがしっかりしていて、意外にも平易な語り口調でいて読み易い。
決してロマンやユーモアがある話では無く、ひたすら現実の苦悩や絶望を彷徨う主人公。
社会と個人、男と女、罪の対義語とは一体何なのか?といった様々なテーマをはらんでいる。
そして心の奥底に眠っている深淵な闇の部分を呼び起こさせます。
一言一言が重くのしかかり、ボディーブローを何発も浴びているような感覚でした。
僕自身これほどまでに暗い小説は読んだ覚えがない。
覚悟が無かったら読むのはお勧めしないとは言ったが、
一生のうちに一度は読んで欲しい小説ではあります。
あの時にこんな本にはまったなというのが他の小説にはあるけれども、
人間失格は何時読んでも如実に自己の在り方を考えさせられる。
まさしく普遍的な価値を持った古典という名に相応しいです。

個人的に解説はもっとさらっと読みたいのに
何十ページも割かれているのはどうかと思うんだけどなぁ。
ぼくは合格
普通の文学者が避けて通る自明の理の解説を、かなりしつこくこなしていく、そのずうずうしさは、文学的な比喩を道化と自画自賛することを通して、次々と女を落としていく、しかし、滑稽さとは、ひとを見下すことで生じるわけだから、太宰の「女をさがす冒険」は畢竟悪趣味に収束すると思いがちだが、彼と同じ種類の冒険をしたことのある読者にとっては、ありがたく感じられる種類のものである。ようするに、太宰の作品はダイダラボッチにしか理解し難い、読者を狭く絞る種類のものなのである。