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歎異抄 (講談社学術文庫) |
| 梅原 猛 - 講談社 価格 ¥ 1,103 | |
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歎異抄 (講談社学術文庫)梅原 猛 講談社 価格(new/used): 1,103 円 / 591 円 より 発売日: (2000-09) アマゾン売上ランキング: 60666 位 文庫 / 通常24時間以内に発送 [ユーザーによる評価] 平均評価: 4.5 / 総数: 10件 親鸞の言葉そのまま、という唯円の願い筆者の唯円は親鸞を知る世代と知らない世代の端境期に生きた人であり、 親鸞没後の真宗教団の教義の乱れを正すために書かれたらしい。 親鸞自身は話下手で、理解しにくい暗い文章しか残していないそうなのだが、 この「歎異抄」は、親鸞の弟子である唯円が師匠の素朴な言葉を書き記す形式であり、たいへん簡潔に書かれている。 また、この本は歎異抄の本文と和訳だけでなく、親鸞とその師、法然の思想についても説明があり、 総じて語り手である親鸞の思想が懇切丁寧に説明されている。古文の知識に乏しくとも、豊富な解説で理解できる。 是非ご一読を。 善人なお持て・・・言わんや悪人をや「善人なおもて往生をとぐ、言わんや悪人をや」 学生時代、倫理社会の授業でこの言葉に触れ衝撃を受けた。 自分は善人であり続けたいと思っていたし、今でもそうだ。 ここで言う善人、悪人と言うのは客観的評価ではなく、主観的標なのではないか?と気付いたのは相当時間が経ってからだ。 「自分を主観的に評価して善人としてしか評価できない者でさえ往生する。ならば、自らを悪人と評価できる者が往生できないはずが無いではないか?」と言う意味で捉えている。 ごく稀に自分自身について、悪人と自ら評価することもあったが、それも一時の事で大抵自分では自分は善人だと思い続けている。 そう言う自分でも往生できる、救いを求める資格があると言う。 つくづく、親鸞の凄さを感じる。 また、その教えをこの様に文章にして後世に残した唯円もまた素晴らしく熱い魂の持ち主だと感じている。 原文は難しいが、現代語訳が付いているのでそちらだけ読んでも十分価値があるので、是非読んでいただきたい。 信仰に行き詰ってしまった人へ光明を与えて下さる御言葉絶望して自力の限界を知り、もうどうしようもなくなって、 神仏に救いを求めるのが信仰の契機になると思いますが。 菩提心を起こし信心を深めていくには、科学偏重主義に毒されて しまった強固な疑念を乗り越えなければなりません。 そのために仏教哲学やら様々な修行法へはしりがちですが、 そこで、またもや自力の限界を思い知る事になると思います。 そんな絶望の中の絶望といえる無間地獄のような苦界から抜け出す 重要なヒントを与えて下さるのが、親鸞聖人の御言葉が収められた 『歎異抄』だといえます。信仰で何よりも大切なのが信心であって、 それだけで救われること。そこに自力の計らいは全く必要のないこと。 誰もが平等に救われることの可能な易行道の最たるもの。 宗教宗派を超えて親しまれ、仏道修行者が最終的に依拠し、絶賛する 人が後を絶たないもの納得できます。読み返すごとに、何らかの ヒントを得られます。信仰に悩める全ての人へ。 合 掌 純粋さなぜ、歎異抄が心を打つのか。それは親鸞も著者の唯円もすごく純粋だからだと思う。愚かなほど純粋である。親鸞が自らを愚禿(おろかなはげ)と呼び、悲僧非俗(僧にあらず俗にあらず)と呼んだことは自らに対する純粋さゆえであり、唯円もまたそれ以上に純粋である。純粋を突き詰めていくと、「善人なをもて往生す。いわんや悪人をや。」になる。第九条で唯円は親鸞に「念仏してもちっとも歓喜の気持ちがおこらない」と問えば、親鸞は「自分もそうだ」と答える。第十三条で親鸞が唯円に「お前はおれの言うことを信じるか」と問い唯円が「勿論」と答えると親鸞は「人を千人殺してくれ」と問う。これを言葉の表面だけでとらえてはいけない。そこにある真意を感じるには、真に純粋でなければいけない。この本は原文、現代語訳、こころという順序で各条づつ説明し、最後に解説をのせている。梅原先生の解説が分かりやすく、原文のこころを伝えてくれます。人間の心はいつも今の自分をまもるために常に偏っています。自分の思想をまもろうとすれば、「自分もそうだ」とは言いません。自分はすぐれた弟子だと思えば「歓喜の気持ちがおきない」とは言いません。親鸞の純粋さが唯円の純粋さを呼び、その唯円が親鸞に純粋にぶつかり、それ以上の純粋さで返す、このことが歎異抄の魅力だと思います。梅原先生の説明も分かりやすく、唯円と親鸞の心と心のやりとりが伝わってきます。 価値観の揺らぐ現代人の心に響く親鸞の声・・・親鸞の愛弟子(といっても親鸞は、教団はいうまでもなく、弟子たるものを持たなかったときいている)である唯円。親鸞死後、30数年たったころ、親鸞の曾孫の覚如が、浄土真宗教団の礎を築きつつあるころ、親鸞の信心とは異なる教えがはびこっていることを歎いた唯円が、「いやそうじゃない」と老骨に鞭打って、親鸞の生の声を書き記した書物が『歎異抄』のようである。そうろう文と現代語訳、それに、梅原猛の「こころ」と称する解説がついており、読みやすい。 親鸞は、教科書の世界では『悪人正機説』で知られていた。『歎異抄』の『第三条』に、『善人なをもって往生をとぐ、いわんや悪人をや』とある。高校時代、僕は学校の教師からも聞いたし、母親からもこの親鸞の声を聞いた。「なんまんだ(南無阿弥陀仏)と一念ずれば、善人すら往生するではないか!だったら、なおさらのこと悪人は、極楽往生する」といった感覚であった。当時の僕は、ここで言う「悪人」を、「悪いことをした人。犯罪者」というレベルでしかイメージ出来なかった。僕は「じゃ、悪いことをすればするほど、極楽に行けることになるやんか」と母に言ったことがある。しかし、同時に、そのころの僕は、「そういえば、いったい善人とは何んなの?悪人とは・・・?」「善人と悪人の境は何か?」という素朴な疑問を感じたことは事実だった。今、歎異抄を一応読み終えたが、一言感想を述べよう。親鸞は、世に言う「善人」の偽善を鋭く突いたのだと思う。しかも、権威・権限を持つ輩の「善人」ぶりをである。しかし、弥陀の本願は、かような偽善者をも、最後には救うという、だったら、なおのこと、世に言う「悪人」を救うのは当然だというだろう。だとすると、親鸞は、今でいう「体制への反逆児」ということになる。しかし、東京に出て、当時の学生運動に巻き込まれた僕は、数々の「反逆児」を見てきたが、その「偽善」が見え隠れするのを垣間見た。もちろん、僕もその一人であった。54歳になった今、「価値観が多様化」した混迷社会の今。こんなときこそ、親鸞の生きた声・強烈な声を聞くべきではないかと思う。 |