休戦

Primo Levi - 朝日新聞社 価格
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休戦

Primo Levi
朝日新聞社

価格(new/used): -- 円 / 3,500 円 より
発売日: (1998-07) アマゾン売上ランキング: 248948 位
単行本 / 在庫切れ
[ユーザーによる評価] 平均評価: 5.0 / 総数: 5件

これが男か?
★ガザ爆撃、糾弾!! イスラエル体制派に死を!!! やつらにプリーモの爪の垢でも煎じて呑ませてやりたい。
★ガザ侵攻、糾弾!! 女子供の流す血に塗れたガザは、圧殺者ども自身の流す血に餓えて叫んでいる――味方戦車の誤射による戦死者3名だって、オウンゴール1発だけ、これでは少ない! 少なすぎる!! 文字通り、《ガザをイスラエル兵の墓場に!!》
 さて、以下の拙文は聊か旧稿ながら――

 あと一年たらずで西暦二〇〇〇年、つまり私たちの二〇世紀は終わる。人類がこれからもいわゆる発展を続けてゆくにしても、あるいは突然、そう、かつて地球上に繁栄を極めた恐竜たちのように、突然絶滅してしまうにしても、それはもう私たちの子孫に残された問題と課題に等しい。まだまだし残したこと、出来るわずかばかりのことはあるにしても、私たちとしてはおのれの過ごした二〇世紀が果たしてどんな時代であったのか、検証して、残すべきものは残して後世に託すしかない。では二〇世紀とはどんな時代であったのか?
前半に二度もの世界大戦とロシア革命、後半も朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、中東戦争……と、戦後生まれの私たちにとっても、それは疑いもなく戦争の時代であった。歴史はむろん、社会や文化、文学、人生も戦争との関わりなしには語れない。ことに二度目の大戦は人類に深い爪痕を残した。ドイツ人がユダヤ人を始めとする何百万人もの人びとをシステマチックに大量殺戮したことである。髪の毛は鬘に、死体の脂は石鹸に、灰は肥料に利用するほどの凄まじさだった、あるいは人間の尊厳に対して爬虫類的な冷やかさであったというべきか。しかもこの絶滅収容所を頂点とするラーゲル網が、いまも世界的な発展を続ける原発などドイツ式重工業の産業基盤に深く組み込まれていることは重要である(いまのアメリカに見るように、その根底において彼らのラーゲル精神が清算されたと考えるのは早計ではあるまいか。)*。ドイツの版図が拡大するにつれて当時のヨーロッパは収容所大陸と化していた。

*ラーゲルからの奇蹟の生還を遂げたイタリア人作家プリモ・レーヴィは、その著書『これが男か』劈頭の詩でこう歌っている。

       おまえたち、ぬくい家のなかで
       安全に暮らして、
       晩に帰れば
       熱い食事と親しい顔々が待つ、者たちよ、

         考えに考えよ、これが男か
         泥のなかで働きぬいて
         片時も安らぎを知らず
         パン半分のために闘い
         シ、またはノと答えたばかりに死んでゆく者が。
         考えに考えよ、これが女か、
         髪はなく、名前はなく
         もう思い出す力を無くして
         虚ろな眼に、冷えきった身体の芯の
         冬の蛙みたいな者が。

       思いを凝らせ、これは実際にあったことなのだ。
       おまえたちに命じておく、これらの言葉を、
       心の奥に刻みこめ。
       家におるときも街中に出かけるときも、
       寝るときも起きるときも、
       子供たちにくり返し言いきかすのだ。

         さもないとおまえたちの家は解体され、
         病でおまえたちは動きがとれず、
         子らはおまえたちから顔を背けることだろう。

では、そのころ私たち日本人はどうしていたのか? 中国を侵略し、一九三七年には南京大虐殺を引き起こしている。一九四〇年には日独伊三国軍事同盟を結び、太平洋戦争に到る。疑いもなく間違った側について戦っている。捕虜を「丸太」と称して人体実験をくり返した七三一部隊の例ひとつを取ってみても、私たち日本人がドイツ人と比べてより冷血でなかったとはとても言えない。招集されたから、命令されたから、で済む問題ではない。
では、イタリア人たちはどうしていたのだろう? 一九四三年七月にムッソリーニを逮捕、九月に連合軍と休戦、イタリア軍は崩壊し、ドイツ軍による占領とドイツ傀儡の新ファシスト政府の成立、これに抗して北イタリアの各地でパルチザン戦争が起こる。そう、イタリア人たちは一九二二年のローマ進軍以来ファシズムのもとに一九三五年にはエチオピア侵略、三九年にはアルバニア併合と、ドイツ人や日本人に負けず劣らず間違った側について戦っていたのだが、四三年の軍崩壊後は民衆のレベルで、個人のイニシアチヴのもとに正義と自由のために戦うことになる。〔『イタリア抵抗運動の遺書』冨山房、参照。〕どうしてこのようなことが可能だったのだろうか? 私たち日本人やドイツ人にしても銃口の向きを変えて、民衆を死に追いやる者、体制を翼賛する者たちと戦うことなど思いも寄らなかったろうし、何よりも抑圧を生む構造をおのれが支えていることにあまりにも無自覚であった(2008年末の私たちの更なる無自覚ぶりは平和そのものの意味を貶めているのかも知れない)。彼らイタリア人だって、人間として生きるぎりぎりのところで敢然と起ち上がったわけだが、こうした経験は私たち日本人の戦争体験からはまったく欠落している。
本書を読まずしてホロコーストを語ることはできない
ホロコーストについての資料をいくら読み進んでも、一つもどかしく思うことがある。同じ著者レーヴィの『アウシュヴィッツは終わらない』の言葉を引いてみよう。「憎しみとは個人的なもので、ある特定の個人、名前、顔に向けられるものだ。ところが、当時私たちを迫害したものが、顔も名も持っていなかったことは、この本からも読み取れるはずだ」。しかし実は、多くの資料からは、虐殺されたユダヤ人たちの方の「顔」もまた見られることがないのだ。人間性と個性を剥ぎ取られた彼らにも、しかし「悲惨」というような抽象語で括ることのできない「顔」もあれば「生活」もあったのだということを教えてくれたのが、レーヴィの記録にほかならない。
ホロコーストの資料の膨大さに比べ、ホロコースト後、すなわち絶滅収容所から解放されたあとのユダヤ人たちの運命を綴った資料は数少なく、その意味でも本書はこの上なく貴重な資料であると同時に、第一級の「文学」作品である。ここに書かれたものはもちろん祖国帰還までの「別の試練、別の労苦、別の飢え、別の寒さ、別の不安」でありながら、描かれた風景や人物像のなんと瑞々しく魅力的なことか。著者のラテン性と、最初に移送された土地・旧ソ連の大らかなスラブ性とが幸福に溶け合ったと言うべきなのだろう。
解放の爆発的な喜びを経たあとに真の苦難が待ち構えていたことは、優れたドキュメンタリー・ビデオ「祖国へ ホロコースト後のユダヤ人」等で知ることができるが、ここでは束の間の「休戦」を著者とともに味わうべきなのだ。

伝えたいという力
プリモ レーヴィの作品のすごいところは、ナチスドイツに迫害を受けたユダヤ人としてできる限り脚色のない真実の歴史を伝え残そうとした彼の姿勢と、それらの作品の面白さだと私は思います。もちろん彼の伝えようとした体験を面白いという言葉で表現することに道徳的な後ろめたさを感じない訳はないのですが、それでもあえて言いたい。彼の作品は面白いと。それは彼が自分の記憶に余計な脚色をいれないようにと常に心がけていたこと、その過酷な状況を少しの漏れもないよう冷静な意志と好奇心をもって自分の心にしっかりインプットし続けたことによるのではないかと思います。
この作品は収容所から解放され、それぞれの故郷に帰るまでの物語です。途中にあることは過酷なことだけでなく、滑稽で奇妙なことも多い。さまざまな出来事に本を読みながらどんどん引き込まれていくことと思います。さんざん私たちを引き込んでラストでは、彼は私たちを強烈に突き放します。それは意図したことではなく、その経験がどんな想像力を使っても受けたものにしか理解し得ないからだと感じさせられます。
レーヴィの心境の変化
 「休戦」はレーヴィの著書の中でも特異なものであるといえます。私は原著で読んだのですが,まず冒頭の詩。

 Sognavamo nelle notti feroci
Sogni densi e violenti...(中略)
Il comando dell'alba:
<>

 <>,つまり「起床」という意味なのですが,レーヴィの心境を忠実に表す言葉だと思います。これは実際に読んで,各々考えていただきたいのですが,その「起床」という言葉にはいろいろな意味を含んでいるように思います。アウシュヴィッツで実際に「起床」と言われたことを指しているのと同時にアウシュヴィッツから帰還して,人間性を取り戻し,また生きていこうという決意を込めて「起床」と使っている…などなど,いろいろなことが考えられます(あくまで個人的な考えですし,例示に過ぎませんが)。

 私の器が小さいこともあって,<>という言葉の重みをいまだ把握していないのが現実ですが,レーヴィの新たな一面を知るために,ぜひ読んでおくと良いかと思います。彼の主著「アウシュヴィッツは終わらない」を読んでからのほうが,読みやすいとは思いますが,全く,レーヴィについて知らないという方でも問題なく読めるかと思います。

 読み進めれば読み進めるほど,レーヴィの「人間性(魂)」が回復していくことが分かります。レーヴィが人のやさしさや温もりを感じるたびに,少しずつ,また人間になっていくのです。実際にレーヴィも他の本で述べていたことですが,そう感じたようです。

 ぜひ,お読みになられたら,<>という言葉について考えてみてはいかがでしょうか。そして,なぜ,レーヴィがこの詩を本書の冒頭にのせたのか,その趣旨を考えてみるのも良いかと思います。

破壊されたヨーロッパ、夢、冷戦の予感
「アウシュビッツは終わらない」の続編的なノンフィクションですが、
流れる空気は奇妙に明るく、詩的な要素に満ちています。
この作品の一番の魅力は、
終始旅を共にする陽気な香具師のチェーザレを初めとした、老成した商業民族たる「ギリシア人」、
ドン・キホーテのようなモーロ老人、「刑法の抽象的な犯罪規定が人の形をとったかのような」クラヴェーロ、
謎に満ちた医師ゴッドリープ、美しいウクライナ娘ガリーナなど、まるで演劇や叙事詩にしか登場しないような詩的な旅の仲間たちでしょう。
ナチス・ドイツによって破壊された東ヨーロッパの、現代ではあり得ないような多彩な文化的混沌を背景として、主人公レーヴィ達は大小の冒険を重ねつつ、ポーランドから堂々めぐりでロシアへ、それからルーマニア、ハンガリー、オーストリアを経て、故郷イタリアに辿り着く。
帰還行の最後に語られるレーヴィの言葉、
「この二十カ月間の間に、他のものをどれだけ失っただろうか?家で何を見出すだろう?自分自身のものがどれだけ浸食され、消されているだろうか?」
が胸に迫ります。
「遙かなる帰郷」という題で映画化されているらしいです。