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不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 (1122))岩波書店 価格(new/used): 819 円 / 600 円 より 発売日: (2008-04) アマゾン売上ランキング: 38468 位 新書 / 通常24時間以内に発送 [ユーザーによる評価] 平均評価: 4.0 / 総数: 12件 語り部としての大澤真幸の才気概して面白く読めたが その「面白さ」はあくまで著者が本書で語る「物語」の面白さであり それが本当なのかどうかについては 留保が必要ではないかと感じた。 例えば著者は「酒鬼薔薇聖斗事件」「地下鉄サリン事件」などに 時代を読み込もうとしている。 著者が読み込んだ「物語」は読んでいて説得力には満ちている。しかし一方 それらの事件が 果たして時代を代表するような出来事であったかどうかに関しては 同時代に生きた僕としては説得されなかった。 事件にまとわりつく「記号」を分析する知性には感心しても その記号は そもそも特殊ではないかという印象が最後まで残った。 ましてや松本清張のサスペンス小説「砂の器」を取り上げ 主人公の本浦を 「本裏」=「裏日本」と読み込んでしまう著者の「深読み」を考えてしまうと それ以外の著者の読み込みも もしかしたら同レベルに「面白く」かつ「深読み」ではないかと感じてしまうのだ。 その上でオタクを巡って 現代を読み込む手法に関しては 「そもそもオタクがこの時代を切りとる正しい切り口なのか」という前提を押えるという手続きに欠けている気がした。 現代の日本社会を分析するにあたり オタクという「特殊な記号」が どれほど有効なのかが僕には説得的ではなかった。 「オタク文化を読み解くことの面白さ」は本書でも十分に感じさせられるが それが 現代の日本のすべてとは思えない。今の日本を高齢化社会だと考えると その高齢者たちが オタクだとも思えず 従い 日本のある一定以上の人たちを外した日本論の有効性が ぴんとこないのだ。その意味でも 前記の手続きがほしいと思った。 著者の博覧強記と 語り部としての才気はすさまじい。それがある意味で裏目に出ている気もした次第だ。繰り返すが 大変面白い本ではあるのだ。 偶有性の隠蔽としての第三者の審級私がこの著者の作品を読んだのは「自由の条件」についで本書が2冊目です。著者の問題意識は本書においてより鮮明に表現されているように思います。私になりに思い切って要約すれば、著者は次のようなことを言っているのではないでしょうか。 「人々は偶有性の隠蔽としての第三者の審級に捕らわれている。しかし現代では第三者の審級の不在に耐えなければならない。直接的な他者との関係こそがその可能性を開くものである」 著者は戦後を3つの時代に区分し、そこでの第三者の審級の変化を追っていきます。そして現在は、暴力的な現実に逃避することで第三者の審級が立ち現れることを期待するような「不可能性の時代」に至ったといいます。そこから逃れるには第三者の審級の不在に耐えるしかありません。「自由の条件」では、死んだのは他者ではなく自分だったかもしれないという偶有性にその可能性を見ていました。本書では、愛が憎しみと表裏一体であることが閉じた共同体を開くことにその可能性を見ています。 私は小学の4年生のころ、なぜボクは自分であって他人ではなかったのか、なぜボクは日本人として自分のこの両親のもとに生まれたのか、という疑問に深く捕らわれたことがあります。子供でも疑問に思うことなので、たぶんそれは人間にとって基本的な疑問だろうと思います。それは著者の言葉でいえば、自身の存在の偶有性に気づいたということです。人間はそれに耐えられなくて、規範の妥当性を担保する超越的な他者である第三者の審級を要請してしまうのでしょう。 著者の論理展開はしばしばアクロバットのように目まぐるしく展開します。しかし著者の論理はよく考えれば納得できるもので、人々の実感に裏付けられていると思います。私は次は同じ著者の「ナショナリズムの由来」を読んでみようと思います。 頬張りすぎた肉片?著者の博識、博捜ぶりは驚嘆に値する。読者はたちまちのうちに、幾つものトピカルな事件や現象を想起させられる。まず若者が引き起こした幾つもの猟奇的事件が分析される。(ただし、「猟奇的」などという言葉は単純思考のそしりを免れないだろう。)無意識に働きかける東京ディズニーランドの仕掛けが紹介されるかと思えば一方では意味深長なゲームやアニメやマンガの世界が展開される。(「新世紀エヴァンゲリオン」を知っていますか?)「美少女ゲーム」が大人気らしい。(「美少年ゲーム」はなくてすむのだろうか?)これをサブカルチャーなどと貶めてはならない。その普遍性を説かれるとこれが現代カルチャーのメイン・ストリームと思わされる。ましてや未来は若者のものなのだから。(でもこの世界に無縁な若者もけっこういるような気がするのですが?) 松本清張、折口信夫、三島由紀夫、大江健三郎、村上春樹などもそれぞれ役割を振り当てられて登場する。つまり論旨の証明のためにはあらゆる道具立てが使われると勘ぐりたくなる。証明すべきこととは現代が「不可能性の時代」だということ、そして戦後ここに至る過程には「理想の時代」と「虚構の時代」があったということである。しかしお膳立てを揃えすぎれば焦点はむしろ拡散する。証明すべきことが難題であること自体が知的な努力を掻き立てている印象が拭えない。 新書版の本は大体がモノグラフである。常識に従わなくてもよいけれど、構成やプレゼンテーションにそれなりの配慮をしてこそ説得力が生まれる。多文化主義批判や「ムーゼルマン」など教えられることも多い。「アイロニカルな没入」「第三者の審級」などの言葉も教えて戴いた。もう一度読み返せば違った感想が生まれるかも知れません。今のところは、失礼ながら、口中に噛み取った肉片が大きすぎて咀嚼にいたらない欲張りな犬のたとえを思い浮かべてしまいます。 まさしく天才だ。誰がなんといおうと大澤真幸は天才だよ。能力のない馬鹿が酷評をしてるのにはうんざりだ。能力のない人間は批判より吸収が必要ですよ。 細部にこだわらず戦後から現在までの日本人の生活、考え方、倫理、宗教、世相などについて、事実および仮説(この区別が肝要)を展開しています。 特に1990年以降をタイトルの「不可能性の時代」とし、現在の状況を解説しています。「なるほど」と思える部分もあれば、極端な二項対立で無理矢理検証して結果を出している部分もあります。だから納得できない論証も多いのですが、全体としては面白い視点や捉え方もあり、個人的にはためになる本でした。細部にこだわらず、読み進めるといいでしょう。 |